たぬきの映画日記

映画メイン。あとは日常つらつら

小説「夜は短し歩けよ乙女」映画版との違いは何か。

映画版を見て、「完璧超人の黒髪の乙女がどうしてあの先輩に惚れるのかわからぬ」と思った人が多いらしい。

現に私もそう思った。

読み取りきれなかった部分を補えればと思って、原作小説を読んでみた。
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森見登美彦といえば私は高校生時代にも何冊か読んだことがあった。

当時は文章がくどくて読みづらい(失礼)という印象だったが、テンポがよくて展開が目まぐるしく移り変わっていくので気持ちよく読み進められた。

つまりは以前の印象は自分の読書技術の至らなさを本の作風に責任転嫁して、努力を放棄していたわけである。

面白がれる自分になったことを喜び、森見登美彦作品を他にもいろいろ読んでみようと思う。

 

夜は短し歩けよ乙女」を読み終えて、「完璧超人の黒髪の乙女がどうしてあの先輩に惚れるのかわからぬ」とは到底思えなかった。

物語の中に彼女が彼に惚れる理由がこれでもかというほど詰まっていたからだ。

そしてそれは偶然や運命のいたずらなどではなく、先輩の人柄や彼女のための頑張りが巡って彼女に響いた結果なのである。

たとえば古本市で「ラ・タ・タ・タム」に二人同時に手を伸ばし、乙女は先輩もこの本が欲しかったのに譲ってもらったのだと勘違いする。

そして、後から先輩が自分のためにその絵本を手にいれようと死に物狂いで頑張った事実を知るのである。

あるいは、「偏屈王」の座を射止めるために必死で事務局長やパンツ総番長の前に立ちはだかったことを後から聞かされるのだ。

物語の中では彼女の感情の移り変わり、恋心への気づきもしっかり描かれている。

 

では、映画版ではどうしてそこが描かれなかったのだろう。

映画「夜は短し歩けよ乙女」の演出はほんとうに素晴らしい。

ドラッギーでテンポのよいお祭り映画である。

最初から最後までだれることなく面白い演出の数々を描ききるために、先輩と乙女が出会うシーンや感情の揺れ動き描写のようなものを、きっぱり削っているのだ。

だからこそあの映画はあんなに面白い。

代表的なのは「時間」の描写だと思う。

映画での一連の出来事はすべて一夜で起こったことになっている。原作では一年だ。

たった一晩で全く興味のなかった誰かを好きになるのは少し現実的でない。

 

森見登美彦夜は短し歩けよ乙女」の魅力は2つあって、1つは作家特有のシュールでユーモラスな文章や展開である。

そしてもう1つは青年のモラトリアム的な葛藤や恥ずかしくなるような青春模様の描写だと思う。

どっちの要素に期待するかで、映画版の評価が大きく分かれたのだろう。

ちなみに私はどっちも好きだが、どっちかというと原作の方が好きだ。

どっちかが好きならもう一方も見てみるといいと思う。

 

ちなみに森見登美彦作品について書くとき、文章がかなり影響されてしまうのが恥ずかしいね。