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國村隼演じる「日本人」の正体とは。映画「哭声/コクソン」ネタバレレビュー

※最初から最後までネタバレです。
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韓国映画「哭声/コクソン」を見た。

どうしても國村隼演じる「日本人」の正体が悪霊だとは思えない。

その理由と、彼が悪霊ではないことから導き出される推論を書いていく。

 

理由①「現実」と断定できる場面で悪霊的な行動をとっていない

思い返せば「日本人」が異常で恐ろしい行動をとっているのは、想像や夢のシーンばかりである。

彼が山の中で鹿の生肉を食らっていたシーンも、楽しげに話していた女性に対して性暴力をふるったシーンも、尾ひれのついた噂話や恐怖を感じた誰かの空想でしかない。

「現実」の「日本人」は、言葉が通じず得たいの知れない存在ではあった。しかし、疑心にかられて暴力に走るジョングを前にしても悪霊としての表情を見せることはなかったのである。

実際作中で神父が「見たんですか?」と主人公たちに問いかけてもいた。

 

理由②人間的な振る舞いを垣間見せる

例えば呪い(祈祷?)に使うニワトリを購入するシーン。言葉が通じないのにねぎろうとする。店の女性に「頑固な人だね(うろ覚え)」と言われる。

あるいは、逆上したジョングたちに追われ山の中を逃げ惑うシーン。物陰から隠れて様子を伺い、気づかれて逃げ出す。必死の形相で走る「日本人」。彼は生きるために無様にも岩肌にへばりつき、力尽きて地面に落ちてしまう。苦悶の表情だが、声を殺す姿。

そんな描写を見て彼が悪霊だなんてとても思えなかった。

人間的な悪霊だっているかもしれないが。

映画の中で何度も「彼が人間である可能性」を投げ掛けているのではないかと感じた。

 

理由③ゾンビを操っているわけではなかった

「日本人」はジョングたちを襲うゾンビをけしかけていたわけでもなく、ただ見ていた。彼がゾンビを作った描写もなく、むしろトラックから死体が消えていることに驚いていた。

「悪霊でも操れない」のか、「悪霊じゃないから操れない」のだろうか?

 

理由④手に杭を打ったあとがある

物語終盤でイサム(キリスト教徒の若者)が「日本人」と対峙する。

その手のひらには杭を打ったような穴が。

ちなみに「コクソン」の冒頭で引用される聖書の一文は以下の通りである。

なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起すのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。

一度死んだイエスが復活した時に、帰還を信じない弟子を諭した言葉だ。「日本人」は恐れおののくイサムに似たような台詞を言う。

一度死んだはずの人間が実体をもって甦る。その手のひらには磔のあと。「日本人」はイエス・キリストとして描かれ、イエスは決して悪魔ではない。

キリスト教を学ぶイサムが見た恐ろしい幻覚かもしれないが、この時の「日本人」は悪魔の姿をした何かなのである。「日本人」=悪魔=娘を殺そうとした黒幕という裏付けにはならない。

 

以上が「日本人」は悪霊じゃないと思う理由だ。

 

では、ほんとうに彼が悪霊ではなかったと仮定して、「コクソン」のストーリーを紐解いてみる。

 

祈祷師が電話で言っていた内容は真実

「日本人」は悪霊を退治するために村に滞在していた祈祷師だった。

被害者の私物を集めていたのも、鶏を購入して怪しげな儀式をやったのも、村人たちを守るため。

(日韓祈祷合戦的な場面では、二人とも同じ儀式をしていた。祈祷師は間違った人物に「殺」を送り、悪霊に「殺」を送るための「日本人」の祈祷を邪魔してしまったのかもしれない)

悪霊がムミョンであるかどうかは決定的ではないが、少なくとも「日本人」ではなかったと思う。

 

車にひかれて確かに死んでいた

ジョングたちの車にひかれて崖からおとされた時点で「日本人」は死亡していた。

その死因には直前に関わった白い服の女ムミョンが関係していると思われる。

 その後の「日本人」が登場するのは、イサムと洞窟の中で問答するシーンのみである。恐らくあの彼は幻覚であり、概念としての「悪魔」がキリスト教徒のイサムの目を通して実体化したものだと考えた。

 

異端者だから疑われた

村という閉鎖空間の中で、外部から来た「日本人」は異端者である。

何か起きたら真っ先に疑われるし、あることないこと勝手な噂を立てられる。村の人々は異端者の悪口に花を咲かせ、その閉鎖性を増幅させていく。

「日本人」は排他的な村人たちのあり方に慣れていた。犬を殺されても、諦めたようにただ座り込んでいる。村に来た理由を問われても「言っても信じないだろう」と黙り混む。

そんな「日本人」の姿は、マーティン・スコセッシ「沈黙」後半のアンドリュー・ガーフィールド演じるロドリゴ神父と重なった。

もう何を言っても何をしても無駄だと諦め、心を殺して暮らしているのである。

彼にとっては勝手に自分を疑い逆上した村人が家に押し掛けることくらい、日常茶飯事だったのかもしれない。

 

ラストの「悪魔」とそれまでの「日本人」は全く別物なのでは

要するに、この記事で私が主張したいことはこれである。

「日本人」は村人にとって異端者であるがゆえに、もっと大きい何か(ムミョンが悪霊で呪っていたかもしれないし、幻覚キノコのせいかもしれない)が起こした惨事の犯人だと思い込まれてしまった。

誰も彼を信じることなく、襲われて死んだ。

もしイサムが「悪霊ではない」「悪魔ではない」と信じたならば、洞窟の中で彼はイエス・キリストに姿を変えたかもしれない。

 

主人公ジョングは結局誰のことも信じられなかった

鶏が三度鳴いたら帰っていいとムミョンに言われ、疑いと信じる気持ちの間で揺れるジョング。

明らかに聖書のこの一文からきている。

ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

鶏は誰かに疑いを持ったときに鳴くのである。

誰が疑いを持ったか。ジョングである。誰に疑いを持ったか。ムミョンか祈祷師か。その疑いのために彼は家族を失い深い後悔に暮れる。

 

まとめ

信じることの難しさと根拠なく疑うことの恐ろしさを描いた本作。

いろいろな要素がごちゃまぜになって観ている方は混乱するが、そこまで含めて監督の狙い通りであるらしい。

國村隼さん演じる「日本人」の演技が素晴らしいのと、同じ日本人であるという贔屓目から彼に共感してしまい、今回の記事を書いた。

「日本人」が悪霊だと信じたくなかったのである。でも、あながち間違ってないんじゃ?

いろんな人のいろんな解釈を読みたくなる映画だった。

公開館数は少ないけど、たくさんの人に見てほしいな。